火星探査機キュリオシティ
ウチの自習室は無料で特に時間制限もなく使える。勉強をしていく子は、最大で10時間近く居座っている。ひたむきに勉強をしている子どもの姿は胸を打つものがある。
高校受験を控えた中学三年生。勉強の出来不出来はピンキリ。そのレベルによって子どもらは区別や差別を受けている。それを平気でやって恥ずかしげもなく正当化する大人は実は多い。
「大人の期待値を満たさない子」
こういった子は大人からの心無い仕打ちに遭いやすい。子どものあずかり知らないところで勝手に期待をして、勝手に「裏切られた」と思って、子どもにツラく当たる。これを無意識でやっている大人がいる。
この年齢の子で無気力である場合、もしかするとそういう大人の犠牲者なのかもしれない、と最近は思う。中学に上がった途端に意識される成績とその順位。他人と比べて、比べられて、鼻高々になっていく子と自信を削られていく子への分水嶺が中学時代。
どちらに転んでも危うさはあるけれど風当たりは後者の方がキツイ。「自分はダメなやつだ」「頑張っても無駄だ」と思わされることの苦しさは計り知れない。
どうか、そんな風に思わないでほしい。思わせないでほしい。
子どもらと対峙すると、その中に蠢く命のエネルギーが、ウワっとこちらに迫ってくる。ダメなはずがない。みんな何か持っている。これだけの命の迫力を持っているのだから。
眼を凝らして、全身を耳にして、息を詰めながら、子どもらの中から何が飛び出してくるか、今か今かと待ち構えている。
あたしはただ、それが見たいだけ。この子を知りたいという欲の塊(笑)それゆえに勉強に関係ない話をして、オーナーに睨まれる。ユーモアの分からん人やからねぇ。まだ若いのに、心がオッサンくさいわ(笑)
人や学問への好奇心は尽きない。世界を知り、人を知ることの面白さ。ぜひあの子らにも伝えたいなぁ。
東京の優しさ
今週のあたしは休みなし。次の休みは来週の火曜日。8日連勤は別に良いけど、変な疲れを残すと、免疫落ちて今流行りのマイコはんに取り憑かれるからさっさと帰ろう、と思って「帰りまーす」と颯爽と帰って来た。いつもより1時間ほど早いご帰宅。
その帰りの電車の中、目の前の座席に座っていた、同い年くらいの若い女の人。ずっと俯いていて、酔ってるっぽかった。あたしはさして気にもとめずに文庫本を読みふけっていたけれど、急にピシャピシャピシャーーーーって液体が床に零れ落ちる音がして、ビックリして目を上げた。
その人が吐いてた。
意識はあって、口を手で必死に抑えていたけれど、吐瀉物は虚しく落ちていく。両隣に男の人が座っていて、片方は同じく酔っ払っていて眠りこけていたけど、もう片側の人は、しっかりと起きていて、当たり前だけど状況も分かっている様子だった。
そこで席を離れるのが、普通のありがちな光景。そうなるかなと思っていたけれど。
その人は動かなかった。
実際その人の靴にも吐瀉物がちょっとかかっていたけれど、その人はそれを気にしないようにしていた。じっとその女の人の隣に座っていた。
だからと言って特に何かしてあげることはなかったけれど。でもそんなその人を見て、あたしは「優しいなぁ」と思った。そんな状況でも、遠ざけられれば悲しいものだ。それを敢えてしなかったその男の人の気持ちがなんだかぬくかった。
その男の人のそんな優しさを目の当たりにしたので、あたしも便乗して(?)その女の人に持ってたタオルをプレゼントした。髪や手に付いた汚れをまずは落とさないとね。女の人だしね。
東京の人の優しさは、控えめで静かなのだ。
分かりやすい明らさまな優しさを恥ずかしがる奥ゆかしさがある。勿論分かりやすい優しさも大事やけどね。でもそれをしないのは冷たいからじゃなくて、恥ずかしがりだからなんだ。
ひとつ分かったこと
あたしはものの見方が、教育というものとの向き合い方が、多分一般的な在り方とはかなり違っているんだと自覚した。いや、前から薄々感じていたからこそ、議論の場ではそれを出すのを躊躇っていたような気がする。
結局のところ、あたしはあの子らが単純に好きなのだ。だから励ましたいし、厳しくしたいし、愚痴聞いてやりたいし、相談に乗ってあげたいし、困ってたら助けたいし、何よりあの子達の中にある心というか、魂を信じたい。
あたしの言葉は「女の甘い考え」として一蹴されたようだわ。
「怯えを与えることに効果は本当にあるんでしょうか」
の問いに、沈黙の後
「そうするしかないという場合はそれもやむをえない」
などというどっかの政治家が言いそうなセリフ。罰を与えるのが良いとも言う。本当にそうか。その効力は一時でしかないし、それを力技で抑えつければ、その子の人間的な成長を妨げるばかりではないか。
長い目で見る。あの子達はまだまだ先の人生ががある。けれどこの出会いはかけがえがない。
少しのことだからといって少しの心しか注がないのは怠け者のやることだ。その子と向き合えた瞬間があたしには何にも代え難く大事なもの。
愛ある大人でいたいよ。
良い先生であることから逃げない
綺麗事を並べてとか、所詮は理想論だとか。
そんなことを言って「現実はこうだから」と何かを切り捨てたり見放したりする人。
理解できるけど、自分はそうなりたくないって思ってしまう青二才(笑)
ウチの塾の問題行動の目立つ生徒。
他のスタッフは完全に「迷惑な子」フィルターをかけてその子達を見ている。理屈はしっかり通してきてはいるけど、あまりにも決めつけがひどく感情的になっている。「信じることが教育の真理」とか何とかぬかしてたのはどこのだれだ。都合良く捩じ曲げて。すべての子に同様に適用されてこそ、その言葉は真実になるんじゃないのか。
一般常識という名の偏見。
乗っかりたくなくて返事もあいまいにしてスルー。あたしが反感を覚えるのは対策そのものではなく、あの子達を大切にしようとしないその心根。
「他の子に迷惑がかかるから」というもっともらしい理屈。「他に手段がないから」とか。手段が他に見つからないほどお前は試行錯誤したんか。
悪役に逃げたり、押さえつけや恐怖による統制に走ったり。それって教育の敗北。
あたしはまだ、そんなものにすがらずに済む方法がどこかにあると信じている。あの子達とあたしとの間に。
良い方法を授けてください、と神様にお祈りをしてみたり(笑)
(#゚ロ゚#)しなかったり(笑)
普通の大人でいたくない
子供らと接していて、イラッとくることは星の数ほどある。
だらだらする。おしゃべりする。
空気を読まない。指示を聞かない。
短絡的で、楽観的。
先行きが不安なのに先を見て行動しない。
眠いとかお腹空いたとか面倒くさいとか目先の欲求に簡単に流されてそれを正当な理由として主張する。
大人から見ればイライラするばかり。
甘えるな。うるさい。静かにしなさい。
周りを見なさい。言うことを聞きなさい。
よく考えて行動しなさい。先を見て備えなさい。
我慢しなさい。勉強しなさい。
やって欲しいことをそのまま言葉にして命令する。そうしていれば「大人」「先生」としての務めを果たしているような気になる。
間違ってはいないと思う。
ただ2つの不安がいつもある。
「あたしはこの子の事を侮りすぎてはいないか?」
もう一つは
「勝手な期待や傲慢な考えに支配されていないか?」
ということ。
子供らにイラっとしたときは、大抵このどちらかでしかない。家に帰る道すがら、ベッドの中でも、振り返りをする。毎日反省している。
何が正しいという答えはないけれど、だからと言って独善的に振舞っていいわけじゃない。あの子たちの中にはそれぞれ清くて誇り高い魂があって、あたしたちはそれに目を凝らして、大事に見守る役目を持っている。
ついその役目を忘れて、「普通にイライラしている自分」になってしまう。
最近は特に、あの子たちの眼を見るようにしている。眼の奥にある何かを知りたくて、あたしは問いかける。
その答えはいつも拙いけれど。
大人なら読解力を駆使して読み取ってあげないとね(笑)
久しぶりに深く息をする
一人暮らし、家族は遠き地方。
仕事は順調だけれど、先は見えず。
保険というものを真剣に考える時期なんだなとしみじみ思う。
今日は保険の契約をしてきた。
実はちゃんとしていなかった保険のこと。
実は全然知らなかった保険のこと。
このことをしっかりと相談できる相手って実は必要なのね。「親切で丁寧なお姉さん、お兄さんが相談に乗ってくれて」という保険会社のありがちなCMが実はリアルなことだと知る。
みんな不安だよね。でもどうしたら良いのか分からない。備えあれば憂いなし。不安はいつも未来のこと。だから「いざというときに頼れる、助けてくれる人とお金の存在」は今を健康に元気に生きるために必要なのね。
自分が大人になっているんだという実感もセット(笑)何か起きた時に自分でなんとか回せる状態にしておくのが自分の責任。親や兄弟、友達に「助けてー!」なんて、社会人失格かもね(笑)
なんだか今は不思議な気持ち。実は自分がとても不安がっていたことにも気づいた。保険は助け合いの精神なんだって(笑)知らない誰かと不安を補い合う仕組み。面白いね。
掛け捨てでも、誰かの助けになっているのなら・・・いいのかな?(笑)
大人になるっておもしろい。