贅沢な1日

昨日は昼と夜とで、それぞれ別のお友達と食事をした。

昼に会った友達は小学1年生の時からの友達。当時は近所に住んでいて、登下校はいつも一緒だった。小学校からの友達は、その子だけ。当時もっと色々友達はいたのだけど、その子たちとの関係は自然消滅した。

今ではその子は名古屋に住んでいて旦那さんと子供と犬が一匹いる。そのために行動の制限が多くてなかなか気軽に会えなくなってる。今回は東京の旦那の実家に帰省していて会えた感じ。

ふるいにかけられて残ったその友達との時間はやっぱり楽しくて癒された。不思議なのは、特別いい話や深い話、ためになる話、愚痴り合いや恋愛話とかをしたわけではなく、目の前の料理や今の現状とか、一緒に連れてきた子供や犬についてのツッコミとか、そういう話だったこと。大抵その子とはそうなる。

でもそれで良かった。大事なのは、会って直接会話を交わして、同じ空間を一緒に楽しむこと。友達だけじゃなく、恋人とのデートでも、私はそれが一番大事に思う。

夜に会ったお友達は、もう50を超えた女性。前の職場で仲良くなった人。お子さんが2人いるけれど、私のことを娘のように可愛がってくれている。

1年ぶりに会ったけれど、変わらず元気でいたことが何よりも良かった。この人との飲みは、子供の話や、仕事の愚痴り合い、恋愛話をすることが多い。お酒が入ると人は生々しい話が楽しくなる。お互いの近況が知れて、それを共有して、頷きあう。そんな時間。

それもすごく良かった。本当に気心が知れている人でなければ、そういった話もただ下品だったり表面的でつまらなかったりするけれど、その人とだから、実感や共感が強くなって、楽しい。

そのあと、近所のスナックにカラオケをしにいった。その人の地元なので、その人と繋がりのある人たちが集まっていて、そういったおじ様やおば様方に囲まれつつ、笑ったりしみじみしたりしながら、贅沢な時間を過ごした。

そこにいた、もとPTA会長のおじ様の歌声がめちゃめちゃ良い声で、胸に沁みた。おじ様の歌声に聞き惚れたのは生まれて初めてかもしれない。

その人は50半ば、もう1人、その辺りの地主をやってるおじ様もいて、その人は60越え。どちらもあたしのお友達と長い付き合いがあって、楽しくお話をしてくれた。

2人のおじ様は、色っぽくてとても素敵だと思った。格別に容姿が整っているとかではないし、中年らしい肉付きの身体で、年相応の見た目ではあるけれど、でも色っぽい。合いの手やギャグも絶妙だった。こういう人はいつまで経ってもモテると思う。

面白かったのが、あたしが歌っているときは、ニコニコして頷きながら聞き入ってくれていたのに、他の男性客が歌いだすと途端に嫌そうな顔をしていたことだった(笑)男の人って面白い。

最後はそのお二人が私たちの分まで支払いをしてくれていた。最後まで紳士(?)な対応に感動した。また会いたいと思える人たちだった。

人との繋がりや出逢いに対する喜びやありがたさをひしひしと感じた、そんな日だった。

東京の街は、冷たいとかってよく言われるけど、私が出逢ったのは、人情に厚い、優しく小粋な大人たちだった。

10年先に答えがあるのかも

私はもう世間でいうアラサーで、仕事でもそれなりに責任ある立場にある。ただ、社会経験は同世代に比べると薄く広くで、未だアマチュアの域を脱しきれていない。

責任の重さに対して自分の実力が追いついておらず、広い海の中でガボガボと溺れているような感覚がある(笑)

そんななかで、うまく答えの出せない課題は山積していく一方。もちろん一朝一夕で答えを出せると思うほど驕ってもいないし若くもない。でも何となくあっちに行ったりこっちに行ったりとイマイチ定まらない気持ち悪さから抜け出したいって思う。

昨日はある人たちと忘年会をした。人数は5人。そこに私の一回り年上のお兄さんがたも来ていて、仕事の話や恋愛の話で盛り上がってとても楽しかった。

私はその場で悩み相談なんてことはしない。スパイスの効いた他愛ない会話でお酒とおつまみを一緒に流し込むあの空間と時間だけが大事だから。

でも、お兄さん方の話は、雑談にしても、学びが深すぎる(笑)今の私の課題に対する答えを既に持っていて、それをさらりと披露してくれる。彼らの言葉は何よりも沁みる。

そこで思ったのが、今の自分の中の問いに自分から答えが返ってくるのは、10年後になるのかもしれないということ。実際経験値の豊富な3つ年上のオーナーでさえ、私の問いへの明確な答えは持ち合わせていない。いや、敢えて言わないだけかな?でも解決には至っていないしな(笑)

アラフォーのあのお兄さん方は、もうそこへしっかりと答えを出しているし、それに自身も納得もしている。

10年後のあたしはどんな答えを出すんだろう。10年後になっても「うーん、これは答えのない問題だなぁ」なんて言ってたら嫌だなぁ(笑)

自分を孤独にするもの

誰かが言っていた。「自分に対して一番厳しいのは、実は自分自身なんです」と。

 

そうかもしれない。成長すると自分を客観視するようになる。自分の主観に偏りがあるのでは、という疑いが湧く。それが過度に行き過ぎれば自己嫌悪に襲われて、自分で自分を追い詰めて行き場を失うこともある。しかも誰もそんなことを求めていないにも関わらず、だ。

 

自分を極度に追い詰めることは、本当に良くないと思う。自分という味方を失った人間は友達が1人もいないよりもずっと孤独だとあたしは思う。これ以上の孤独はない。かつて経験したことがある。

 

東京に来た目的は、映画の現場で仕事がしたかったからだった。あたしは映画の美術監督になるのが夢だった。大学時代にしきりに映画美術協会の主催するワークショップに足を運び、現役で仕事をしている美術監督さんたちと顔を繋いでいた。福岡と東京の往復にはお金がかかったし、ワークショップはおよそ3、4日はあったからホテル代もバカにならない。ネットカフェに泊まるか、そんな余裕もないときは、24時間営業のファーストフード店で夜を過ごしたこともある。

 

それを辛いとも思わなかった。どうしてもその仕事がしたくて、それ以外の選択肢など当時のあたしには皆無だったから。とにかく必死だった。そして運良くとある美術監督さんが縁を繋いでくださり、T映撮影所の美術スタッフとして雇われることになった。

 

撮影所の現場は男社会だし、厳しいことも承知の上だったし、どんなことがあろうとも、努力と元気で乗り越えようと思っていた。

 

そう、気持ちがあれば乗り越えられると思っていた。でもそれは甘い期待で、簡単に打ち砕かれた。今思えば当たり前のことだと笑いたくなるけれど。

 

気持ちなどと曖昧なものに縋り付いていた愚かなあたしは、知識や能力を上げることを疎かにしていた。それは経験を積み上げれば勝手についてくるものだと思い上がっていた。いや、「知識や能力を本気で上げる」という意識とそのための思考回路、行動力があればそれはその通りだったと思う。ただ、大学生生活を終えたばかりのあたしにはそんなものは備わっていなかった。

 

経験が積み上がる前に、「役に立たない」「足手まとい」という周囲からの視線や言葉、そして何より自分の内側から激しく執拗に責め立てる声に心が折れた。

 

心が辛すぎて、誰とも連絡を取れなかった。その仕事を辞めて、1人で1週間くらい部屋に引きこもって寝てばかりいた。寝たら幾らか癒される気がした。起きていたら自分の内側から責め立てる声がして、それが止まず、過去の様々な辛い思い出がフラッシュバックして、枕を口に当てて叫び声を上げていた(笑)

(#゚ロ゚#)ヤバイね(笑)

 

そこから自尊心を取り戻すのには何年もの月日を要した。その間もまた打ち倒されるようなことが幾度もあったし、励まされるようなこともあった。文学や映画も心を支えた。色んな人との出会いや出来事が積み重なり、時間によって傷は癒された。と思うけれど、今でも思い出すとかなり辛いから思い出すのは避けている(笑)

 

最初の書き出しの時点では子供らの話をしようと思っていたのに、気がついたら自分語りになってしまってる。長いし。

(#゚ロ゚#)ハズいんだけど。

 

まぁいいや(笑)

火星探査機キュリオシティ

ウチの自習室は無料で特に時間制限もなく使える。勉強をしていく子は、最大で10時間近く居座っている。ひたむきに勉強をしている子どもの姿は胸を打つものがある。

 

高校受験を控えた中学三年生。勉強の出来不出来はピンキリ。そのレベルによって子どもらは区別や差別を受けている。それを平気でやって恥ずかしげもなく正当化する大人は実は多い。

 

「大人の期待値を満たさない子」

こういった子は大人からの心無い仕打ちに遭いやすい。子どものあずかり知らないところで勝手に期待をして、勝手に「裏切られた」と思って、子どもにツラく当たる。これを無意識でやっている大人がいる。

 

この年齢の子で無気力である場合、もしかするとそういう大人の犠牲者なのかもしれない、と最近は思う。中学に上がった途端に意識される成績とその順位。他人と比べて、比べられて、鼻高々になっていく子と自信を削られていく子への分水嶺が中学時代。

 

どちらに転んでも危うさはあるけれど風当たりは後者の方がキツイ。「自分はダメなやつだ」「頑張っても無駄だ」と思わされることの苦しさは計り知れない。

 

どうか、そんな風に思わないでほしい。思わせないでほしい。

 

子どもらと対峙すると、その中に蠢く命のエネルギーが、ウワっとこちらに迫ってくる。ダメなはずがない。みんな何か持っている。これだけの命の迫力を持っているのだから。

 

眼を凝らして、全身を耳にして、息を詰めながら、子どもらの中から何が飛び出してくるか、今か今かと待ち構えている。

 

あたしはただ、それが見たいだけ。この子を知りたいという欲の塊(笑)それゆえに勉強に関係ない話をして、オーナーに睨まれる。ユーモアの分からん人やからねぇ。まだ若いのに、心がオッサンくさいわ(笑)

 

人や学問への好奇心は尽きない。世界を知り、人を知ることの面白さ。ぜひあの子らにも伝えたいなぁ。

東京の優しさ

今週のあたしは休みなし。次の休みは来週の火曜日。8日連勤は別に良いけど、変な疲れを残すと、免疫落ちて今流行りのマイコはんに取り憑かれるからさっさと帰ろう、と思って「帰りまーす」と颯爽と帰って来た。いつもより1時間ほど早いご帰宅。

 

その帰りの電車の中、目の前の座席に座っていた、同い年くらいの若い女の人。ずっと俯いていて、酔ってるっぽかった。あたしはさして気にもとめずに文庫本を読みふけっていたけれど、急にピシャピシャピシャーーーーって液体が床に零れ落ちる音がして、ビックリして目を上げた。

 

その人が吐いてた。

 

意識はあって、口を手で必死に抑えていたけれど、吐瀉物は虚しく落ちていく。両隣に男の人が座っていて、片方は同じく酔っ払っていて眠りこけていたけど、もう片側の人は、しっかりと起きていて、当たり前だけど状況も分かっている様子だった。

 

そこで席を離れるのが、普通のありがちな光景。そうなるかなと思っていたけれど。

 

その人は動かなかった。

実際その人の靴にも吐瀉物がちょっとかかっていたけれど、その人はそれを気にしないようにしていた。じっとその女の人の隣に座っていた。

 

だからと言って特に何かしてあげることはなかったけれど。でもそんなその人を見て、あたしは「優しいなぁ」と思った。そんな状況でも、遠ざけられれば悲しいものだ。それを敢えてしなかったその男の人の気持ちがなんだかぬくかった。

 

その男の人のそんな優しさを目の当たりにしたので、あたしも便乗して(?)その女の人に持ってたタオルをプレゼントした。髪や手に付いた汚れをまずは落とさないとね。女の人だしね。

 

東京の人の優しさは、控えめで静かなのだ。

分かりやすい明らさまな優しさを恥ずかしがる奥ゆかしさがある。勿論分かりやすい優しさも大事やけどね。でもそれをしないのは冷たいからじゃなくて、恥ずかしがりだからなんだ。

ひとつ分かったこと

あたしはものの見方が、教育というものとの向き合い方が、多分一般的な在り方とはかなり違っているんだと自覚した。いや、前から薄々感じていたからこそ、議論の場ではそれを出すのを躊躇っていたような気がする。

 

結局のところ、あたしはあの子らが単純に好きなのだ。だから励ましたいし、厳しくしたいし、愚痴聞いてやりたいし、相談に乗ってあげたいし、困ってたら助けたいし、何よりあの子達の中にある心というか、魂を信じたい。

 

あたしの言葉は「女の甘い考え」として一蹴されたようだわ。

 

「怯えを与えることに効果は本当にあるんでしょうか」

の問いに、沈黙の後

「そうするしかないという場合はそれもやむをえない」

などというどっかの政治家が言いそうなセリフ。罰を与えるのが良いとも言う。本当にそうか。その効力は一時でしかないし、それを力技で抑えつければ、その子の人間的な成長を妨げるばかりではないか。

 

長い目で見る。あの子達はまだまだ先の人生ががある。けれどこの出会いはかけがえがない。

 

少しのことだからといって少しの心しか注がないのは怠け者のやることだ。その子と向き合えた瞬間があたしには何にも代え難く大事なもの。

 

愛ある大人でいたいよ。