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普通の大人でいたくない

子供らと接していて、イラッとくることは星の数ほどある。

 

だらだらする。おしゃべりする。

空気を読まない。指示を聞かない。

短絡的で、楽観的。

先行きが不安なのに先を見て行動しない。

眠いとかお腹空いたとか面倒くさいとか目先の欲求に簡単に流されてそれを正当な理由として主張する。

 

大人から見ればイライラするばかり。

 

甘えるな。うるさい。静かにしなさい。

周りを見なさい。言うことを聞きなさい。

よく考えて行動しなさい。先を見て備えなさい。

我慢しなさい。勉強しなさい。

 

やって欲しいことをそのまま言葉にして命令する。そうしていれば「大人」「先生」としての務めを果たしているような気になる。

 

間違ってはいないと思う。

 

ただ2つの不安がいつもある。

 

「あたしはこの子の事を侮りすぎてはいないか?」

 

もう一つは

 

「勝手な期待や傲慢な考えに支配されていないか?」

 

ということ。

 

子供らにイラっとしたときは、大抵このどちらかでしかない。家に帰る道すがら、ベッドの中でも、振り返りをする。毎日反省している。

 

何が正しいという答えはないけれど、だからと言って独善的に振舞っていいわけじゃない。あの子たちの中にはそれぞれ清くて誇り高い魂があって、あたしたちはそれに目を凝らして、大事に見守る役目を持っている。

 

ついその役目を忘れて、「普通にイライラしている自分」になってしまう。

 

最近は特に、あの子たちの眼を見るようにしている。眼の奥にある何かを知りたくて、あたしは問いかける。

 

その答えはいつも拙いけれど。

大人なら読解力を駆使して読み取ってあげないとね(笑)

 

ルパンがカッコよすぎて悶絶

いやいやいや。ルパンさん、クラリスのためにどんだけ体張るの?!

こんだけ頑張ってくれたらねぇ。

好きになっちゃうよね、クラリスも。

(#゚ロ゚#)やっぱね。

久しぶりに深く息をする

一人暮らし、家族は遠き地方。
仕事は順調だけれど、先は見えず。
保険というものを真剣に考える時期なんだなとしみじみ思う。

今日は保険の契約をしてきた。
実はちゃんとしていなかった保険のこと。
実は全然知らなかった保険のこと。

このことをしっかりと相談できる相手って実は必要なのね。「親切で丁寧なお姉さん、お兄さんが相談に乗ってくれて」という保険会社のありがちなCMが実はリアルなことだと知る。

みんな不安だよね。でもどうしたら良いのか分からない。備えあれば憂いなし。不安はいつも未来のこと。だから「いざというときに頼れる、助けてくれる人とお金の存在」は今を健康に元気に生きるために必要なのね。

自分が大人になっているんだという実感もセット(笑)何か起きた時に自分でなんとか回せる状態にしておくのが自分の責任。親や兄弟、友達に「助けてー!」なんて、社会人失格かもね(笑)

なんだか今は不思議な気持ち。実は自分がとても不安がっていたことにも気づいた。保険は助け合いの精神なんだって(笑)知らない誰かと不安を補い合う仕組み。面白いね。

掛け捨てでも、誰かの助けになっているのなら・・・いいのかな?(笑)
大人になるっておもしろい。

デザインと教育の仕事

大学ではデザインを勉強していた。主にビジュアルデザイン。デザインと芸術を混同する人がいるけれど、この二つは根本的に違う。デザインは他者をロジカルに誘導するものであり、芸術は理屈を超えて他者の心の琴線に触れるもの。

デザインには理屈がある。
例えばファストフードの店。暖色系の色味が多いのは、その色味が客の食欲を煽り、また客のアドレナリンを促し回転率を上げるのに効果的だから。
一方で夜のバーなどお酒を扱う店。寒色系が多いのは、その色味が客の気持ちをリラックスさせ、長く滞在させることで飲み物の売り上げを上げるのに効果的だから。

デザインは強い意図、目的があって設計されていて、それが効力を発揮していればそれは良いデザイン、そうでなければ悪いデザインということ。

良いデザインを生み出すには、形、質感や色味が人間の五感(特に視覚)+思考に与える影響をある程度知っておくことと、論理的で現実的な想像力が必要だと思う。

今教育の仕事をしていて、デザインの勉強をしていて良かったと心から思う。

ウチの塾は個別指導で、先生一人につき生徒が最大二人までついて授業を受ける。その一人一人の授業の全ての準備を、あたしがほぼ一人でやっている。

それぞれの授業で何をするか、どの教材を一時間でどれ位するのか、授業が終わった後の復習に何を課すのか、宿題をどれ位出すか・・・。全部あたしが決めてやっている。

この作業ほど骨が折れることはない。そもそも生徒一人一人の実力も目的も性格も年齢もバラバラで、かつ担当する先生のタイプや実力によっても、使う教材や準備の仕方に配慮が要るから。

一人一人について考えなくてはいけない。そうなったときに、大学で培った「デザイン力」を発揮する。

例えばある小学生。
落ち着きがなく集中力にかけた子。学力的にも平均的学力よりはいくらか遅れがち。ただ、その子は事あるごとに目を見開く。そういう子は好奇心が旺盛なことが多い。
そしてその子を受け持つ担当のアルバイトの大学生の先生。優しい語り口と分かりやすい説明、また暗記させるだけでなく、「考えて解く」ということを大事にしている先生。

この二人で理科の授業をするとなると・・・
使うべき教材は、長い概要や解説が付いた、一問一答形式で白黒の一般的なワークブックではなく、イラストがふんだんに取り入れられ、解説が丁寧で分かりやすく、見開き1ページの内容は少なめの、カラーの教材を使うのが良い。

白黒の一問一答形式の問題は、むしろ宿題にするのが良い。授業で生徒の興味関心は十分に引き上げられているはずだから、あとはそれが呼び水となって、授業と同じ単元から出された宿題にも抵抗なく挑めるだろう。次の授業でその宿題の答え合わせをしてもらえば完璧。

・・・そんなことを一人一人に考えている。
あたしがそうやって「デザイン」した授業は、そうはいっても思い通りにいくことは多くない。生徒が別の要望をすることもあるし、先生がその場の判断でやることを変えるときもある。それはそれで別に良い。

ただそのデザインが思惑通りに行った時は、内心すごく気持ちが良い(笑)それひとつあるだけで、「今日は良い仕事ができた!」ってなる。
(#゚ロ゚#)へへん!

あたしはこの「デザイン力」を当たり前に使っているけれど、それが実は、当たり前ではないのだと同僚たちを見ていて思う。あたしが当たり前に駆使しているこの力は、大学やその他、これまでの人生で培ってきたオリジナルのものであり、それが無い人の方が多いのだと。

この力はコミュニケーションの場でも応用ができる。伝えたいことを伝えるために選ぶ言葉、伝達手段、表情、声の抑揚。これも一種のデザインと言える。

「デザインなんて勉強してて将来食っていけるのか?」
という問いはあると思う。世に出回っているデザイン職というのは確かに生業にするのはかなり大変だと思う。だけど、デザインを勉強する上で培う知識や視点、リアルでロジカルな想像力は、あらゆる職種に応用が出来る。

そんなことをつらつらと考えた一週間でした。
(。-_-。)むぅ

灰谷さんの遺志

中学三年生の女の子の話。
受験に向けて、もう他の子は本腰を入れて勉強に取り組んでいる一方で、彼女はいつも、ボンヤリとした様子で、自習室での様子も、手は動いているけど頭が動いているように感じられない。

同じ中学のその子の友達が何人もウチの塾のいて、一見すると仲良くしてはいる。ただ、その仲良くする仕方が、その子については、酷く「ベッタリ」としている。

一緒の時間に帰るよう友達に強要する。休憩時間も、何時間も相手に付き合わせて、それが叶わないとなると、強い口調でキレるそう。

受験の成功に向けて仕事をしている私たちからすれば、本当に困った存在。本人だけが報いを受けるだけならまだ良いけれど、周囲の子たちの足を明らかに引っ張っている。

これで共倒れを食う羽目になってしまっては、真剣に取り組みたいと思っている他の子たちがあまりに可哀想。

こういう見方をすれば、その子は完全に「悪者」「厄介者」「問題児」扱いになってしまう。

こういうときこそ、私たち大人は、慎重に、冷静にならなくてはいけない。そして、思い出さなくてはいけない。どんな子であっても、「誰かの宝物である」ということを。今が仮にそうでなかったとしても、「将来誰かの宝物になるかもしれない」ことを。

私はその子を大事にすることにした。
猫可愛がりしているわけではない。
「疑わない」「言い分を聞く」「その子との時間を楽しむ」とか、普通の対応をするだけ。

以前はよくその子に私も目くじらを立てていたけれど、それをやめた。大事にするようにした。そうすると、不思議とあたしの心の中にその子に対する好意が湧いてきた。愛情と呼べる程の代物ではないとは思うけれど(笑)

その好意が伝わっているのか、あたしのかける言葉に、彼女は笑顔を向けることが多くなった。

人は、特に女の子は、自分を大事にしてくれる人間の言葉に耳を傾ける。例えどんなに立派な人間であっても、自分を否定する相手の言葉は受け入れない。受け入れたくない。

教育の立場にあって思うのは、多数の利益のために少数を否定したり、排除したりしていれは、それをした本人そのものが、人としてダメになるということ。少なくとも、教育者としては失格だということ。

少数を否定、排除するなんて、素人でも出来る。教育の仕事の良し悪しは、そんな少数をどう扱うかが分水嶺になるんだろう。

こう考えてしまうのは、きっとあたしの中に灰谷健次郎さんの影響が大きく残っているからだと思う。

甘いとか、非合理だとか言われるやり方であることはよく分かる。結果を軽く見ているわけではない。

誰も置き去りにしたくない。
あたしは誰よりも欲張りなのかもしれない。

子供が尊敬を寄せる大人

大人と子どもがどこで接点を持つか。

まずメインとしては、第一に「親と子」、第二に「学校の先生と生徒」。サブでは「親戚の人」とか「近所の人」。あとあるかな?

塾の先生というのは、微妙な立ち位置にある。ちゃんと「大人らしく」子どもらへ「教育」と「指導」をビシっと出来てる人達は沢山いれば、中には子どもぶった対応で子供ウケを狙う人もいる。「大人であること」を放棄して、わざと「いい加減さ」や「未熟さ」を前面に出して、「自分は君らの仲間だ」という風に装う。

どちらも仮面を付けていることに違いない。
前者は大人ヅラという仮面で、後者は子供ヅラという仮面。

それをしなければ立ち行かない場面も実はある。塾講師は、ある程度そのスタンスに柔軟性が求められるのだと感じる。保護者の方も、学校の先生とも親とも違う接し方を、私たちに求めている。

じゃあ、子供達は何を私たちに求めているか。それは「親しみの持てる尊敬できる大人」じゃないかと見ていて思う。

子供らにとっての尊敬とは何か。
それはその子によって違っている。「カッコイイ」「綺麗」「頭が良い」「教えるのがうまい」「公平で寛大」色々だと思う。

ただ、中でも一番大きいのは「面白い先生」。「笑いを生み出せる大人」に対する彼らの期待感、親近感、尊敬の念はとてつもない。

笑いというもののステータスは、多分どの時代でも重要視されていると思う。世間的なものはともかく、少なくとも子供らの中では、不動の一位「おもしろい先生」。

「うちの塾にメチャクチャ勉強わかりやすく教えてくれる先生がいるんだ!」よりも
「うちの塾にメチャクチャおもしろい先生がいるんだ!」の方が彼らのアンテナに引っかかりやすい。

あたしは笑いを狙ってはいない。
でも、子供らが何を言われると笑うのかを知っている。(下ネタではないよ(笑))
その子供らの笑いのネタというのは、「彼らの内面や行動に関すること」。

あたしは子供らの言動にいつも興味があるし、それをおもしろいと思っていて、それを毎回お笑いコンビのツッコミ役宜しくツッコミを入れているだけ。

どんな内気な子でもそれですぐに笑う。
笑いが生まれることで、お互いの距離感や流れる空気が一気に変わる。

そういえば、ある漫画で「流れを変えるのは『笑い』と『許し』」とあったのを思い出す。それは人と交流が絶えない職種にあるからか、沁みる言葉。

難しいのは『許し』の方。
教育の仕事にあると、つい子供の未熟さを揚げ足取りして責めてしまいがち。

もう少し『許せる大人』になりたいと思う。

中坊たち

中学のとき、友達があまりいなかった。
(#゚ロ゚#)ぼっちでした。

小学校のときにたくさんいた友達みんなとクラスが離れ、一人の状態から友達を作り直さなくてはいけなくなった。それがとても面倒で大変なことだった当時のあたしは、友達作りを断念した。グループには属さず、一人か二人の子とそれなりに話して仲良くなりつつ、かといってそれ以上輪を広げることなく、教室の片隅で本を読んだり落書きしたりしている、典型的なぼっち。

だからか教室の様子やそれぞれの交友関係を、無意識のうちに観察していた。
(#゚ロ゚#)へ〜って。

塾で中学生達を見ていて思うのは、あたしが中学生だった頃の中学生の有り様と、今の中学生のそれとはそんなに違いがないということ。

特徴1
共通語は「ウザい」「キモい」「メンドくさい」。

特徴2
互いにそんなに好きでもないのにいつも一緒にいる、群れる。

特徴3
男子と女子との謎の敵対関係

特徴4
無気力な有様が「ありのままで良い」とする価値観。出る杭は引かれる。

特徴5
誰かの「嫌い」は波及していき、共通の敵を持ったもの同士が徒党を組む。

なんか中学生達に対する批判みたいになってる(笑)でも成長期の繊細な時期だからこそ起きる現象でもある。

そんな彼らは受験で大人の世界に片足突っ込む。そのことによる葛藤や戸惑いは凄まじく、ときには激しい拒否反応を伴って、彼らは色んなものにがんじがらめになる。そこから何とか抜け出そう、その痛みを少しでも小さいものにしようとする故に、以上の特徴が出るんじゃないかなぁ。

なんてね。
(#゚ロ゚#)そんなことを思う。

今日初めて生牡蠣を食べた。
まだ舌が子どものあたしには、まだ早かったよう。ポン酢を死ぬほどかけて食べました。
ヾ(TДT;))))...ぁぁぁ